「BANANA FISH」感想ーライ麦畑のつかまえ役になって欲しかった

 

 この感想を書くためだけに、遂にはてなブログに登録しました。使い方もHTMLもイマイチよく分かりません。文字の大きさすら変えられない私は果たして現代社会で生きていけるのでしょうか?早くお仕事やめようね。

 

そしていつのまにか20歳を数年過ぎた私(未だにマジか?と確認したくなります。嘘だよって言って。)は、初めて「BANANA FISH」を読みました。まだ何の解説も他の方の感想も読んでいないので、多分めちゃくちゃありきたりなことを書いてしまうんだろうなと思います。平凡な人間なので仕方ない。しゃーない上海ですよ。

 

  2017年、今年の夏にアニメ化になると聞き、実は年末に全巻を買っていました。

でも、怖くて怖くて読めませんでした。

だって誰に聞いたって、

「ああ、あれね…」

「アッシュー!!!!!」

「1週間は休みを取った方がいいよ」

「アッシュ…………」

としか言わないからです。未読者を怖がらせるのはやめてください。1ページ先を読むのも震えてたんですから。

 

でもだからこそ、彼がどうなるのか、半ば覚悟をして読み始めました。

すると、子供時代から80年代の音楽や洋画に倒錯し、大学に入ってからは20世紀アメリカ文学を好きになった私はストーリーにのめり込みました。

ベトナム戦争、多様な人種のメンタリティー、NYのストリート・キッズ、マフィア、酒、ドラッグ…いかにも「アメリカらしい」、それも「アメリカの闇」で溢れていました。加えてとんでもない美貌を持ったプラチナブロンド・グリーンの瞳・IQ200の天才不良少年???モデルはあのリバー・フェニックスだって????えっ??マジでヤバくない???こんな 私の大好きなものつめこんだピクニックでいいの??やだ…

そして80'sロックはUKが好きですが、オープニングに流すなら"Born in the USA"*1とかですか?あまり詳しくないので、プレイリストがある方は私に教えてください。"Run to you"*2もいいかな。

 

 更に余談ですが、私は漫画を読むとき、数ページ先を読んでしまう悪い癖があります。そしてまた戻るので一巻読むのに1時間かかります。

11巻を手に取った私は、なんと後ろのページを見る誘惑に負けてしまいました。ぱらぱらとめくったページには、アッシュはちゃんと笑って話していて、「ああ、良かった、結末はどうあれ、アッシュは生きていたんだ。」そう思って、安心して11巻を読み始めたのです。そうして私の数ヶ月かけた覚悟は脆く崩れ去っていました。まさに「油断するな」。*3お恥ずかしい限りです。

 

 話を戻して、「アッシュにとって英二とは何だったのか」。きっと考え尽くされた、言い古された言葉だと思います。アッシュが、何故平凡な少年である英二に救われたのか。簡単なことでは、彼らが同じ年代の同性だったということ。異性のような社会的立場、駆け引きは彼らには必要ありません。また大人によって傷つけられてきたアッシュにとって、心を開くことができる前提として、まず同じ年代の人間だったのだと思います。*4因みに、私の心の中でパパ・ディノは100回殺しましたし、その他の悪いおじさんたちもブランカ*5顔負けの私の狙撃技術で全滅しました。

 

もう一つには、人種の問題があります。「アメリカの闇」を描いた本作にとって、白人、黒人、中国人、南米系、様々な人種の少年たちが登場します。中国人的な「掟」、黒人差別、それぞれの文化が細かく焦点化されている。それでも、重要なことは、彼らは皆「アメリカ人」だということです。1980年代では、アメリカ大陸を征服した白人達でさえ、もう「祖国」は存在せず、ヨーロッパ人とは違うという認識を既に持っています。人種が違えど、彼らを結びつけるのは「アメリカ」という国なのです。そんな少年たちの中で、日本人であるのは英二一人です。ばらばらなアイデンティティの中で「国」という一つの結びつきを持って生きるアメリカの少年にとって、「日本人」という存在はあまりに異色で際立った存在だったのないでしょうか。

そしてそのことが、アメリカ社会に踏みつけられてきたアッシュが、英二の前では「17歳の少年」に戻ることができるきっかけだったのだと考えました。目の色が違っても「友達」なんだから他に問題あるの?その通りです。あれ、また涙でてきた。

 

そして、自明ではありますが、英二の人格です。無垢で純粋な彼の誠実さや暖かさは、自己嫌悪、劣等感、孤独に苛まれたアッシュを包み込み、光となった。「世界中を敵に回しても、君の味方。」アッシュのためだけの光。英二のためだけの光。年上である英二は、精神的に彼を守ろうとし、初めはアッシュにとって兄と重なる印象も少しはあったかもしれません。しかし、彼らはお互いの唯一の光となった。アッシュは、彼の光によって救われながらも、自分の中にある暗い過去が照らされることを恐れ、英二に会うことができませんでした。それでも、英二によって、彼が見るマンハッタンの夜明けは美しいものになったのでしょう。

*6

 

 そしてラストのシーン、あれではアッシュがどうなったかは曖昧になっていると思います。そこを読んだ読者は必ず、色々な分岐を想像するでしょう。

 だからこそ、私はアッシュが死んだ世界である「光の庭」を恨みました。「鎮魂と再生の物語」(吉田先生の言葉でしょうか?)は、勿論この作品を言い当てています。アッシュの魂は、英二の魂と結びつくことによって、救われました。そして、彼の見た夜明けの光は、英二、シン、暁をも照らしていく。でも、勝手な私は、それだけで良かったのだろうかと思わずにいられません。

最期のアッシュは、本当に幸福だったのだと思います。しかしあのとき彼は、その場で助けを求めることはできた。あれほど苦しみながらも生に執着していた彼が、英二の手紙によって満たされてしまったのでしょうか?*7結果的には、死ぬことで、英二を永遠に手に入れることになりました。彼を解放しながらも、束縛することになった。ある人を恋しく思うのは、孤独を知っているから。誰よりも孤独を知るアッシュは、英二を永遠に孤独にしました。

 「光の庭」を読めば、そんなことはない、英二がアッシュの思い出と共に歩き出しているのだと分かります。それでも私は、どうしてもアッシュだけが幸福な世界ではなく、魂の伴侶である*8英二にも幸福になってもらいたかった。いえ、「光の庭」での彼は、アッシュと過ごした日々によって、幸福なのだと思います。今も彼らはつながっているから。でも、半身を失った世界ではなく、2人が存在していて欲しかった。そして、アッシュにも、英二がいる世界をもっと見て欲しかった。 私は、作品における「死」が苦手です。好きな登場人物がいなくなるのは本当に悲しいし、アッシュと違い、私にとって死とは怖れるものだからです。だから、もし、死を描くなら、どうしても意味のある死を描いて欲しいと思っています。そして、本作の結末としては必ずしも必要な要素ではなかったと思います。でもこの作品において、死とは、彼らにとって意味のあるものでも特別なものでもなく、日常だった。そう考えれば、あのラストはそこまで悲愴的なものでは無いのでしょう。 しかし、そのような日常を送ってきたからこそ、英二の日常を感じてほしかった。そしてこう思わずにはいられません。「どうして彼をライ麦畑のつかまえ役にしてあげられなかったの?」と。

これは、個人の願望でしかありません。

 

 

  この作品には、何故か「懐かしさ」を感じました。アメリカ人でもなく、90年代に生まれた私は、何もリアルタイムで見たわけでもないのに。それは戦後、「アメリカ文化」を受け入れようとした日本人の特性なのか、現代から80年代への逃避なのか。あるいは、誰しもが彼らのような「絆」を求めているからでしょうか。魂の結びつき、そのような人間に出会うことができるのは、容易くできることではありません。

だからこそ2人はこの上なく幸福だったのだと頭では理解しているのに、今はまだ考えることができないようです。

 

 読み終えた時、本当に涙が出て、驚きました。どんなに悲しいお話でも殆ど泣くことがない鉄の女だからです。(最近少しは涙が出るようになりましたが。)このような状態でアニメを視聴することができるでしょうか?ひとまずNYに飛んで、市立図書館の前で、泣きながらホットドッグを食べます。トーフとナットウの方が好きだけど。誰かついてきてくれるよね?



*1:https://m.youtube.com/watch?v=lZD4ezDbbu4

*2:https://m.youtube.com/watch?v=gF5LaVkDhyk

*3:許斐剛テニスの王子様手塚国光より。

*4:青春小説の解説にあるような、「10代の少年少女にしかない多感な感情」そんなお決まりの言葉には昔から辟易していましたが、最近少し分かるようになってきました。本気で嫌です。

*5:白(ブランカ)という名前を見た時、シュガシュガルーンのネズミちゃんを想起しました。最後までスマートすぎてむかつきます。大好きです。

*6:2人が窓から夜明けを見るシーンで、あさのあつこ氏の「NO.6」を思い浮かべましたが、既にこの作品も「BANANA FISH」に影響を受けていることは指摘されているようです。何はともあれ、小学生で「NO.6」に出会ったことは運命でした。

*7:追記 アッシュの人生において、英二の手紙に書かれた言葉は、何よりも尊いものだった。現代の日本に暮らす私には、アッシュの気持ちは絶対に分からないのかもしれません。あのとき、アッシュは始めて自分から幸せになろうとしました。ずっと側にいて欲しいと懇願しながら、同時に遠ざけてきた英二に初めて歩み寄ろうとして、走り出した。でも、もうその言葉だけで、アッシュが今まで何よりも執着してきた生への渇望を超越していたのです。私はもっとアッシュに幸福になってもらいたかったのに、アッシュにはそんなこと関係のないことで、もう十分だったのです。だから彼は、この上なく幸せに眠りについた。その死はきっと、彼にとっては奇跡的で、輝かしいものだった。それでも、私はやっぱり悔しいと思います。どうして私はこんな幸せな世界に生きているのか。何故、彼らとは「幸せ」の定義が違うのか、あの時代の彼らには許されなかったのか。だからこそ、現代に生きるアニメのアッシュは、同じ結末を歩むのでしょうか。物質と利便性に溢れ、スマホを手にした彼は、「距離」「時間」「国」といった隔たりを原作のアッシュと同じように感じているのでしょうか。原作の時代を生き抜いたアッシュにとっては、英二の言葉が何よりも尊く、充分すぎるものだった。それは、個人の問題であると共に、そうさせた時代や環境があると思います。私は、あの結末を理不尽な時代のせいにしたいのでしょう。2018年のアッシュがどのようにその奇跡の生を生き抜くのか、今は楽しみにしています。空に飛んだ英二が映る、エメラルドグリーンの瞳を見れただけでもこの時代に感謝します。

*8:高殿円メサイア 警備局公安五係」より。