(未完成)江國香織「きらきらひかる」を読んだ

 

 

 本は好きだけど、買っても読まない本があるし、10代の頃に読んだ本は全然覚えてない…。江國香織の作品もそのひとつ。大人になって初めて読んで、これから読み直したり、もっと読みたいと感じた。

 

以下の感想は、この作品が今自分が悩んだり考えていることに深く触れていて、何か言葉で残そうと思ったから書きました。思いついたことをあげていくだけなので、論理性はありません。引用は、江國香織きらきらひかる」(平成6年、新潮文庫)より。

 

 少し変わった夫婦のお話。笑子は少し情緒不安定で、アルコール依存気味。睦月はとても優しいお医者さん。だけど、紺という恋人がいて、ちなみに男性である。彼らは10日前に結婚した。

 

 読み始めたとき、こんな2人が何故結婚したのかなと思った。だって、一人ってとても楽しいじゃない?まして彼らはお見合いをしたとき「結婚するつもりはありません」なんて言い合ってしまっている。

 

だけど結果として彼らは結婚して、ちゃんと?と言っていいのかな、お互いを愛している。この作品を大きく占めるのは、2人のお互いへの感情と、そのすれ違い。

 

◯2人の愛情について

 

「睦月はやさしい。そうしてそれはときどきとても苦しい。」(p.21) 

「胸にわだかまった不安はどんどん喉元につきあげてきて、私はほとんど泣きだしそうだった。」(p.44)

「睦月のまっすぐな眼差しは、いつも私を悲しくさせる。」(p.53)

「睦月に対してとても残酷な気持ちになるのだ。」(p.75)

「たまらなくなって私はさえぎった。この人はどうしてこんなに善良なんだろう。」(p.80)

 

 笑子は、自分に自信が持てないのだと思う。何故こんな自分にこんな優しく、誠実でいてくれるんだろう?と考えてしまうのだ。結局、笑子は睦月を好きになってしまっていて、彼の無条件の誠実さと優しさに苦しくなっている。

 それでも、今の生活を捨てることはできない。笑子はもう睦月がいない生活は考えられないくらい彼を好きになってしまったから。それは彼を独占したいわけではなくて、紺という恋人がいる睦月ごと好きになったという気がした。苦しくなってしまう睦月の優しさが、自分にだけ向けられていないことへの安堵。紺が睦月にとって幸福を与える存在であること(自分がその役割を担っていないこと)。笑子にとってはそれで十分幸せなんだろうな。

 それでも睦月はそれを分かっていなくて、いつもすれ違ってしまう。

 

「僕はとてもほっとする。僕がでかけてるあいだ、この子は僕を待っていたわけじゃないのだ、と思う。」(p.31)

「僕は何もしてあげられないんだよ」(p.56)」

「何とか事態を好転させようとする笑子の気持ちが、僕にはひどくいたいたしかった。」(p.92)

「彼女をおいつめているのは僕なのだ、と思った。ひどくせつなかった。」(p.108)

「私は黙った。睦月がすごく悲しそうな顔をしていたのだ。悲しそうというより、痛々しいみたいな顔。たまらない、という顔。」(p.156)

 

 睦月は紺が好きだけど、笑子のことも愛しているから、恋人がいる自分が受ける、笑子からの愛を申し訳なく思っている。

 

「からだのすみずみまで清潔な水がいきわたり、指先まで健康になる気がする」(p.34)

「睦月は清潔に微笑んだ」(p.54)

「誠実、ということが、睦月にはおそろしく大事なことらしい。」(p.176)

 

「誠実」で「清潔」でいたい睦月にとって、紺と笑子、どちらも愛している自分は「不誠実」だと感じてしまうのではないだろうか。誠実でいたいのに、いられない。

 

お互いに愛しているからこそ、その感情がお互いを苦しめている。彼らはどこまでそれに気がついているのかなあ。

(それにしても・・羽根木さん(笑子の元恋人)と引き合わせた時はびっくりしたよ。ありえないでしょ。)


「睦月じゃだめなのだ。なんにもならない。私はどんどん睦月にたよってしまう。」(p.91)

 

でも、最初は「ごっこ」だった結婚も、「守りたい」ものに変わっていて、それが2人の生活の転機となった。

 

 このままでいたいのに、その気持ちは本当なんだと思う。だからこそお互いに矛盾した感情を抱えていても、小さな幸せの中にいたいのだ。

 

「不安定で、いきあたりばったりで、いつすとんと破綻するかわからない生活、お互いの愛情だけで成り立っている生活。」

 

これも3人の本心だ。

 

「どうしてこのままじゃいけないのかしら。このままでこんなに自然なのに」(p107)

「でも、変わらないわけにはいかないんだよ」(157)

 

◯「結婚する資格」って?

 

 睦月がいうそれは、セックスをしないこと。子どもを作らないこと。

私に同性愛者の気持ちは真に分からないけど、どうしても申し訳ないと思う気持ちがあるのだろう。でも、笑子ないし読者の一部にとっては、そんなことは「資格」の要素たりえないことは自明である。まさに、「頭悪いんじゃないの」である。

結婚は子どもを作るためにするものではない。子孫を残すなんて本能は、最早持ち合わせていないし、(私の場合は)一人が何よりも楽しいことを知っている。

 それでは、私に「資格」はあるのだろうか、と考えてしまう。そもそも、そんなものは存在するのだろうか。パートナーがいないことは考えられない、私にとってそんな人はまだ出会ったことがないから、また考えてみたい。

 


「たまらなかったのは、睦月と寝られないことじゃなく、平然とこんなに優しくできる睦月。水を抱く気持ちっていうのはセックスのない淋しさじゃなく、それを互いにコンプレックスにして気を使い合ってる窮屈。」

 


「結婚」とは、彼らにとって、親から感じる窮屈さ、世間体、枠組みとしての役割があると思う。だからこそ、彼らは結婚なんてするつもりはなかった。お互い、親のためだったのかもしれない。

それでは、今はお互いに愛情があるんだから、結婚していなくてもいても変わらないのか?でも私は、「結婚」という言葉には不思議な力があると思っていて、戸籍とか家のつながりとかそんなことじゃなくて、2人の人間が、生涯共にするという約束、誓いをする。そこには強い力があるなあと思う。全然論理的ではないけど。

そしてそれが、紺と笑子の違うところだ。(同性婚は今では話題だけれど…)

 


◯結末について

 関係性としては、物語の最初と変わらないように思える。私は最後のページを読んで、えっ、ここで終わるの?と思った。


 読み終わってすぐに思ったのは、結局、3人でいることが幸せなのだと再認識した、納得したのだろうなということ。まあ、実際そうなんだと思う。

 

でも、親との関係は何も解決していないので、また、同じことを繰り返すのではないか?とも思われた。彼らの結婚は、相変わらず捉えどころのない、ふわふわとしているけれど、2人とも親とのつながりを完全に断つことはできていない。自分の価値観を押し付ける親や、世間体や常識は、窮屈で逃げ出したくなるし、本当に要らないと思うけど、その中で生きてきた私たちは、簡単に捨てることもできない。当然だと思う。まして「誠実さ」を慮る睦月は、今まで従ってきた両親との断絶は困難だし、笑子に対する両親への罪悪感も消えてはいないだろう。

 

さらに、先に述べたように、2人はお互いを愛しながらも、その愛は最後まで交わっていない。お互いの感情を話し合ってもいないし、この2人の関係がこの先変化することはあるのだろうか。

 

◯登場人物の関係性について

 

笑子と睦月の将来。それには、笑子と紺の関係性が影響してくるのではないかと思う。睦月と紺、睦月と笑子は愛し合ってるように見えるけど、この2人はどうか?

 

 はじめに、笑子の紺に対する感情について。笑子は、睦月の恋人として紺を大事に思っているかもしれないけれど、紺を象徴するユッカエレファンティペスには、反抗的な気持ちを抱いているようだ。

 

「どこか挑戦的な感じがする……私は紺くんの木をにらみつけ、」(p.11)

「背中にざわざわとつめたい気配がした。ふりむかなくてもわかっている。私は木にもきこえるようにはっきりと、大きな声で言った。」(p.17)

「すぐうしろで誰かが笑ったような気がして、ふりむくとまた紺くんの木だった。私はいっぺんにかっとして、……そのいまいましい木になげつけた」(p.20)

 

 自分がこんなにも悩んでいるのに、紺は睦月に対して、絶対の存在であり、超越した存在だと感じているからではないだろうか。それは敵対心や嫉妬心というより、やはり自己嫌悪から来るものではないかなあと思う。睦月との距離がもどかしくて、情緒が不安定になって、うまくいかないことに対して、フラストレーションがたまってしまう。

 

「私、紺くんが好きよ。…紺くんが睦月の赤ちゃんうめるといいのに」(p.106)

 

笑子にとって「赤ちゃん」とは、幸せの象徴なのだろうか。親からの期待、子がいれば周りから何も言われない。睦月にとって一番の人とそうなれればいいのに、と。

 

 だけど、笑子の「睦月の人生の中で、私はどうしたって紺くんにおいつけない」という台詞は、今までとは違うように感じられた。「おいつけない」というのは、競争をしているということ。笑子はあんなにも睦月と紺の関係を尊重していたのに、紺と自分を比べている。つまり、睦月の中で自分の位置を見出したいと望んでいる。紺のようにはなれないと諦めてしまっているけど、彼女の睦月への愛情が変化している現れなのではないかなと思った。

 

「『でも、僕は男が好きなわけじゃないよ。睦月が好きなんだ。』……私は胸がざわざわした。それじゃあ私とおんなじだ。」(p.145)

 

 

次に、紺の感情について。この小説は、笑子と睦月の一人称が交互に語られるから、紺についてはあまり語られない。でも、いつも飄々として捉えどころのない彼は、睦月の結婚について、何も思っていないのではないか?とも感じられた。だけど、終盤の彼の台詞で、そうではなかったのだと分かる。

 

 

「『睦月、笑子ちゃん抱いてみたら』さりげない風ではあったけれど、声にずいぶん本気がこめられていた。…紺はまじめな目をして僕をみる。『やってみたこと、ないんだろ』」(p.96)

 

「そんな風に追い詰めるんなら、睦月は笑子ちゃんと結婚なんかするんじゃなかったんだよ」

 

紺の心情が語られないので、この場面は本当にびっくりした。これを聞いて、睦月は始めて紺も追い詰めていたことに気がつく。(え、本当に言ってる?遅すぎない?)結婚については2人で話し合われたのではなかったのか、理由があったのではないのか。紺は納得したのではないのか?そうでなければ、「誠実」を大事にするはずの睦月が、紺という恋人がいながら、何故笑子と結婚したんだろう?

 

 これについては、まだ保留にします。だけど、最後、笑子の「白い指の感触」を意識している睦月のシーンは、2人の関係が変化する可能性を持っているんじゃないかなあ。

いずれにせよ、睦月には笑子も紺も必要なのだ。「She’s got a way........But I know that I can’t live without her」なんだもん。

2人に誠実でいようとして、一番身勝手なんだ。

 

 

きらきらひかる

 この作品には、「星」がキーワードとしてちりばめられている。

・寝る前に星を眺めるのが睦月の習慣(p.9)

・笑子が睦月にあげた望遠鏡

・紺がくれた夜空の絵

 

「望遠鏡を通してみる夜空はきちんとトリミングされている。まるく切りとられた宇宙に、無数の星がきらめいているのだ」(p.35)


「私は、世の中というのはまったくよくできていない、と思った。都会の空にこそ星が必要で、睦月のような人にこそ女が必要なのに。私みたいな女じゃなくて、もっとちゃんとした女が。(p.55)」

 

そして、それに関連するのが「宇宙」である。紺は、老人たちを「宇宙的だよね」と表現している。

 これらに共通するのは、「不安」だと思う。宇宙についての話題、結構みんな好きだよね。私は苦手です。宇宙なんて果てしなくて、何万光年なんて想像できないし、暗くて怖くて生きていけない。100年も生きられない人間なのに、そんなこと考えてどうするの?って思ってしまう。あと、子どものとき考えてた「死の恐怖」もあると思う。死んだらどうなるんだろう?「あの世」はあるのかな、あったとしたら、太陽が爆発して、地球がなくなっちゃったらどうなるんだろう?

うーん、今でもちょっと怖いな。

 宇宙ほどじゃないけど、睦月の担当している老人たちも、老いや死を連想してしまう。本当に自分もこうなってしまうのか?って。そして、はかとない寂しさや侘しさ…。


また、毎日夜空を見る睦月と違って、笑子はあまり好きではないように思う。

 

「行けない星になんて、興味ない」

「弱々しいのね。」


 都会から見える星たちは、とても弱々しくて、平凡な例えだけど、登場人物たちに重ねてしまう。形容しがたい不安の中で、きらきらとひかる星たち。それに、星は地上からは同じように見えるけど、一つ一つ違うものだ。笑子や睦月、紺も一人一人違う他人で(江國香織に言わせると「人は皆天涯孤独」)、人の在りようをどうこう言う筋合いなんてない。

 彼らはマンションの一部屋という小さい完璧な空間の中で、自由に生きている。

 

 

 このあたりで一旦筆をおきます。違う作品でエネルギーを浴びちゃって、まともにものを考えられなくって…。またしばらくしたら続きを書くかも。

 

「クロードと一緒に」感想ー愛に生きる物語

 

こんにちは。今回は、標記の舞台についてです。

 前回の感想から一年弱も間が空いたのは、はてなブログの使い方が未だによく分からないからです…。装飾など難しいね。

それでは、以下より書き始めていきます。

 

◯はじめに

 さて、本題を述べる前に断っておきたいのですが、以下で使う引用は、私の記憶に因るものであるため、多くは表現が誤っていると思いますが、ご了承ください。尚、登場人物の表記として、引用部分を除き、Blancチームにおける松田凌さん演じる男娼の少年を「彼」、亡くなった青年を「クロード」とすることにしています。

 

 私は2019年4月20日に「Being at home with Claude 〜クロードと一緒に」*1を観劇しました。この舞台は御周知のとおり、1985年にモントリオールで上演をされて以来、何度も再演が行われています。日本の初演は2014年。2015年の再演では、今回も「彼」を演じた松田凌さんが演じておられます。私が松田凌さんを知って好きになったのは2014年。そして、初めて演技を実際に見たのは2015年。その時にはもう上記の再演は終わっていて、観ることはできませんでした。2016年の再演も、確か大学の授業のため行くことは出来ず、もし次に再演をしても松田凌さんの「彼」を観ることは出来ないだろうな、と思っていました。

 しかし今回なんと、4度目の上演で、松田凌さんが3回目の出演をされているというわけです。(え…控えめに言って奇跡じゃないですか?ヤバ)そういうわけで、私は初めての横浜遠征に出向いたのであります。楽しみ。

 

◯衝撃的なはじまり

 

『彼の家を出て、地下鉄に乗った。ジャリ駅から。だいたい9時ごろだったと思う。』

 

 今回の赤レンガ倉庫での舞台は、客席がステージの正面だけでなく、両側に取り囲むようになっていて、私はその三列目に腰を下ろしました。

照明が消え、突然光と共に登場人物が現れました。その瞬間、怒涛のように続く台詞が私たちを襲いました。こちらは殆ど準備もできないまま。もしあらすじを観ていない観客がいれば、状況を理解できず、混乱と衝撃の始まりになったことでしょう。私はと言うと?松田凌くんの、机の上にスニーカーを履いたまま足を乗せている姿と、照明に照らされて光る金髪と、いかにもうんざりしたように顔を手で覆う姿をを観て、めちゃくちゃ高揚しました。上手く説明はできませんが、「彼が存在している」と思ったからです。

(余談。殆ど真下から見る事ができたから、凌くん、以前にも増して顔美しすぎない?と思った。私は彼の鼻が最高に好きなんだけど、ギリシャ彫刻も顔負けだったよ)

 

 また、音響が殆どないことも、観客を舞台に引き寄せる要因の1つだったと思います。刑事が怒声を浴びせる間も私たちはそれを受け容れるしかなく、登場人物たちが話さなくなれば、沈黙の緊張感を味わうことになります。誰かが何か物音を立てれば、「彼」はぴくりと反応する。

  そうして観客を強引に舞台に引きずりこんだまま、物語は始まりました。

 

◯観客は「参加者」

 この舞台の見所は何と言っても、ラストの「彼」による40分間の独白です。(集中していると、そんなに長かったとは全然感じませんでした。しかし考えたらあの台詞量、熱量…すごいなあ)

 

 特徴的だったのは、「彼」以外の登場人物は退場し、「彼」対観客の構図になったことです。そして、「彼」は私たち観客に話しかけ、問いかけ、責め立ててきました。

 

 『あんたたちに分かるか?』

『ねえ そんなこと 感じたことある?』

『うまく伝わらないかもしれないけど』

『こういうのって何て言うんだ?あんたたちなら分かるだろ?教えろよ!』

『もう聞いてるの嫌になった?もう少しだから』

 

 私たちは尋問をしている刑事なのかもしれないし、裁判を見る聴衆なのかもしれない。確かなことは、私たちは伝えられる側であり、彼にとっては「聴き手」という存在なのだということ。

「彼」が舞台の端から端まで移動して、あるいは舞台を降りて、私たちに話しかけて、問いかける。指を指す。目線を合わせる。(少なくとも「彼」の独白が始まって以降、客席にも照明は当てられていました。舞台を挟んだ向こう側の観客の顔が見えたほどです。呆れられるかもしれませんが、私は目を合わせられて、指をさされました。三列目だからってそんな馬鹿な?私はそう感じたから良いんですよ。彼のエネルギーに息が詰まった。)

 

そうして、私たちは強制的に舞台の参加者にさせられました。自分に話しかけられているのですから、私たちは「彼」の言うことを聞いて、言葉の意味を理解しようとしなければなりません。同意もすれば、それは違うとも思うでしょう。理解ができなくて、混乱する。とにかく、そうすることで、私たちは彼の言葉を受容する人間になったのです。

 しかし、どんな考えを持ったとしても、観客である私たちはそれを「彼」に伝えることは出来ないのです。それは「彼」と「クロード」の関係性に、私たちが何の影響も及ばし得ないことを意味しているのではないかと思います。では何故、独白をしたのか?「彼」自身、クロードの死によって混乱しており、クロードとの関係を初めから語ることで、整理をしていたのかもしれない。あるいは、私たちに何かの理解や感情、承認されることを求めたのかもしれない。それでも最後には、「彼」は私たちに何も求めてはいません。

 

『もうやめるよ』

 

 突然の暗転によって、私たちと「彼」との距離は断絶して、物語は終わってしまいます。

 

◯「彼」の愛について

 

『キャンドルは好きだけど、君の顔をよく見ていたいから、電気をつけたままでいい?って言ったんだ。彼は驚いているみたいだった。僕は電気のスイッチのところに立ってた。馬鹿みたいだよね?でも僕は、気持ちが高ぶってるときは、すごく馬鹿みたいになるんだ。彼は、「君が言っていることはとても変だと思うけど、いいよ」って言った』

 

 これは、 私が大好きな台詞です。

 「彼」の独白は全て、クロードへの愛の叫びでした。クロードが彼にしてくれたこと、彼がそれらに感じたこと。それを聞いているうちに、前半で語られるような情報たち、「彼」がどこで売春をしているだとか、母親がどんな死に方をしただとか、クロードが上流階級の出身だとか、分離主義者だとか、そのような事柄は意味がないものであるように思い始めてきました。つまり、刑事たちが調べたこと、しきりに「謎だ」と言うようなことは、最早どうでもいいことなのです。(これが大学のレポートなら、調べちゃうと思うけど。)

 

『彼は一度僕に、分離主義を説こうとしたことがあるんだ。……彼がルームメイトを追い出してから、一度も話さなくなった。それから全てが完璧になった。』

『電話が鳴った。分離主義の仲間たちからだった。……彼は明日電話をすると言った。そのとき、僕は初めて、彼との関係がこのままずっと続くんじゃないかって思ったんだ。変だよね。4ヶ月も一緒にいたのに。』

 

彼らの間の障害だった、階級主義だとか、異性愛者だとか、思想だとかは、クロードが電話を切った瞬間に、違う世界のものになったんじゃないかな。

 そんなものが世間に存在していたとしても、クロードがいれば、「彼」は仰向けで眠りにつくことができるのです。

 初めは私たち観客に話していた「彼」も、次第にその目はクロードへと戻っていくように感じました。凌くんの意思の強い目が、私たちを射抜くのをやめて、愛する人に向ける目になっていく様を見ることができました。

 

『そんな時、彼は僕を強く抱きしめて、よしよしって囁くんだ。シーッて。』

 

◯「彼」がクロードを殺したのか?

 この謎は、作品内では明らかにされません。独白の中では、「ナイフが落ちてきて」という描写があります。それだけで死ぬとは思えないけれど、「彼」が切りつけたという描写はありません。でも状況だけだったら、「彼」が殺したのかなあ。

 まだ整理はできていませんが、もしそうなのであれば、クロードがその時、一番幸せだったからかな、と思います。「彼」は、男性が泣くのが嫌いで、クロードが泣いてしまうと、「どうしたらいいか分からない」と言っています。だけど、その瞬間クロードが、「喜びに泣いてた」様子を、とても満足そうに語っていました。また「彼」は、クロードとの関係を、次のように話しています。

 

『何て言ったらいいんだ?陳腐に聞こえるかもしれないけど、僕が彼で、彼が僕だった!僕は彼の片割れ、僕たちの間には何もない…そんな感じ。』

 

 「彼」とクロードの幸せは同一だったから、その時、「彼」は一番幸せで、その瞬間に死を迎えたかったのでしょうか。しかしそうなると、クロードが電話を切った瞬間、「2人の関係が続いていくと思った」気持ちはどうなるのか。また、次の台詞はどのような意味なのでしょうか。

 

『そういう瞬間って、よく、今までの人生が最初から浮かぶって言うけど、僕は逆だった。未来が見えたんだ。彼と一緒にいる未来。』(このあたりの台詞、よく覚えてないので全然違うかも)

 

『これは希望だけど、彼が死ぬ時、僕と同じものを見なかったら良かったな。』

 

「彼」にとっての幸せはクロードと同一のはずなのに、未来を見なければ良かった?それは、クロードにとって一番幸せな瞬間で死んで欲しかったからでしょうか。「彼」にとっての幸せは、クロードとの未来よりも、その瞬間だったのでしょうか。もしくは、クロードの半身として、自分の幸せを全てクロードへと捧げたのでしょうか。

 

 うーん、まだ、分からない。前半で「彼」が刑事に語ってた、「僕はずっとフェンスに座ってた」の意味や、クロードの部屋を出た後、「彼はバーにもいなかったから、広場に行ったんだ。僕が後で行くって言ってたから、僕を探してるんじゃないかと思って。」の意味や、ずっと眠り続けていた理由、「彼」が刑事に話していたことは真実なのか?まだ考えたいことがいっぱいあるんだけど…。もう一回見て、脚本を読んで、誰かと話をしたいな。

 

  「彼」とクロードの世界は、彼らにしかないものなのだから、私たちが理解をする必要はないのかもしれません。ただ、「彼」が幸せだったのなら良かったと思います。最後に流した涙は、「喜びで泣いていた」のなら良いけれど。クロードの幸せのための悲しみの涙だったなら…。「彼」を抱きしめてくれる人はもういない。*2

 

ところで、「僕が彼で、彼が僕だった」この台詞を聞いて思い出すのは2018年に見た映画「Call me by your name」だし、「片割れ」というフレーズは、「メサイアシリーズ」における「魂の半身」ではないでしょうか。だからと言って、これらが同じ分類だとか、決まった展開だとは思いません。それでもこの物語は、彼らのような繋がりを求めている人へのメッセージなのだと思います。「BANANA FISH」が2018年に、再び私たちの心を捉えたように。

 私は、人間にとっての「幸せ」や「欲望」は多様化してきている、もしくは、少しずつ、それを表出する人が増えていっている、そんな気がしています。世の中や社会、周りの人間が自分に押し付ける「幸せ」「理想」への抵抗や、私たちが求めるものは間違ったものなのか?そういった感情で生きる中で、彼らのような関係が存在することをいま、確かめたいのではないでしょうか。

 

◯終演後

 「彼」が舞台から去って、観客は誰も、言葉を発しませんでした。席を立つ人もいませんでした。しばらくして拍手が起きて、ようやく立ち上がって、震える手でアンケートを書きました。(殴り書きで感謝状みたいなものを書いちゃった。見た人恐怖だと思う。excuse moiである。)

 私は外に出て、明るすぎる日差しに照らされて、暗い劇場から「現実」に戻ってきたことを感じました。私は「彼」が言っていた、「現実に戻れる奴ら」なのです。

 

それがあることは良いことなのかもしれないけど、私はやっぱり、早く、自分自身の時間を得て、自分の好きなものや興味のあることを受容したいし、そしてできれば私も彼にとってのクロードのような存在がいればいいと思う。そんなことを考えていたら私にとっての今の仕事は、ただの「現実」だなあ。問題は、それをやめて何をしたいのか、自分でもよく分からないこと。そんなうちに時間って過ぎていくね。概ね人生は楽しく生きていることが出来ていますが。

 

松田凌くん

 今回、こんなにこの作品を考えさせてくれたのは、凌くんの演技だったからかな。彼の、「役めいた」話し方と、とても人間くさい話し方が混ざったところ、本当にその人間がいるように思わせる仕草、熱量のこもった目とか、やっぱり大好きだなと思った。あと、久しぶりに間近で見て、顔が最高〜に好きです!何回言うねんって感じやけど。ほんまに好き〜。

 

あと、時間に余裕があれば、Cyanチームも見たかった!どんな演出だったのか、良ければ教えてください。

 

 雰囲気で生きてる人間だから、観劇してから、Sufjan Stevensばっかり聴いてます。なんとなく浸れます。おすすめのアルバムは「Carrie&Lowell」ですのでどうぞよしなに。

 

そういえば私って、ケベックのこと、何も知らないな。行ってみたいな。

 

 最後に、「彼」にとっては無意味なものだけど、ただ、幸せを願って。

 

 

*1:公式サイトhttps://www.zuu24.com/withclaude2019/

*2:最後に「彼」が沈黙をして、涙を流したとき、観客のすすり泣く音が響いて、私には分からなかった。勿論、演技やエネルギーによってかもしれないけど、「彼」の感情は誰にも理解し得ないもので、観客の涙には何の意味があるんだ?と思ったから

「BANANA FISH」感想ーライ麦畑のつかまえ役になって欲しかった

 

 この感想を書くためだけに、遂にはてなブログに登録しました。使い方もHTMLもイマイチよく分かりません。文字の大きさすら変えられない私は果たして現代社会で生きていけるのでしょうか?早くお仕事やめようね。

 

そしていつのまにか20歳を数年過ぎた私(未だにマジか?と確認したくなります。嘘だよって言って。)は、初めて「BANANA FISH」を読みました。まだ何の解説も他の方の感想も読んでいないので、多分めちゃくちゃありきたりなことを書いてしまうんだろうなと思います。平凡な人間なので仕方ない。しゃーない上海ですよ。

 

  2017年、今年の夏にアニメ化になると聞き、実は年末に全巻を買っていました。

でも、怖くて怖くて読めませんでした。

だって誰に聞いたって、

「ああ、あれね…」

「アッシュー!!!!!」

「1週間は休みを取った方がいいよ」

「アッシュ…………」

としか言わないからです。未読者を怖がらせるのはやめてください。1ページ先を読むのも震えてたんですから。

 

でもだからこそ、彼がどうなるのか、半ば覚悟をして読み始めました。

すると、子供時代から80年代の音楽や洋画に倒錯し、大学に入ってからは20世紀アメリカ文学を好きになった私はストーリーにのめり込みました。

ベトナム戦争、多様な人種のメンタリティー、NYのストリート・キッズ、マフィア、酒、ドラッグ…いかにも「アメリカらしい」、それも「アメリカの闇」で溢れていました。加えてとんでもない美貌を持ったプラチナブロンド・グリーンの瞳・IQ200の天才不良少年???モデルはあのリバー・フェニックスだって????えっ??マジでヤバくない???こんな 私の大好きなものつめこんだピクニックでいいの??やだ…

そして80'sロックはUKが好きですが、オープニングに流すなら"Born in the USA"*1とかですか?あまり詳しくないので、プレイリストがある方は私に教えてください。"Run to you"*2もいいかな。

 

 更に余談ですが、私は漫画を読むとき、数ページ先を読んでしまう悪い癖があります。そしてまた戻るので一巻読むのに1時間かかります。

11巻を手に取った私は、なんと後ろのページを見る誘惑に負けてしまいました。ぱらぱらとめくったページには、アッシュはちゃんと笑って話していて、「ああ、良かった、結末はどうあれ、アッシュは生きていたんだ。」そう思って、安心して11巻を読み始めたのです。そうして私の数ヶ月かけた覚悟は脆く崩れ去っていました。まさに「油断するな」。*3お恥ずかしい限りです。

 

 話を戻して、「アッシュにとって英二とは何だったのか」。きっと考え尽くされた、言い古された言葉だと思います。アッシュが、何故平凡な少年である英二に救われたのか。簡単なことでは、彼らが同じ年代の同性だったということ。異性のような社会的立場、駆け引きは彼らには必要ありません。また大人によって傷つけられてきたアッシュにとって、心を開くことができる前提として、まず同じ年代の人間だったのだと思います。*4因みに、私の心の中でパパ・ディノは100回殺しましたし、その他の悪いおじさんたちもブランカ*5顔負けの私の狙撃技術で全滅しました。

 

もう一つには、人種の問題があります。「アメリカの闇」を描いた本作にとって、白人、黒人、中国人、南米系、様々な人種の少年たちが登場します。中国人的な「掟」、黒人差別、それぞれの文化が細かく焦点化されている。それでも、重要なことは、彼らは皆「アメリカ人」だということです。1980年代では、アメリカ大陸を征服した白人達でさえ、もう「祖国」は存在せず、ヨーロッパ人とは違うという認識を既に持っています。人種が違えど、彼らを結びつけるのは「アメリカ」という国なのです。そんな少年たちの中で、日本人であるのは英二一人です。ばらばらなアイデンティティの中で「国」という一つの結びつきを持って生きるアメリカの少年にとって、「日本人」という存在はあまりに異色で際立った存在だったのないでしょうか。

そしてそのことが、アメリカ社会に踏みつけられてきたアッシュが、英二の前では「17歳の少年」に戻ることができるきっかけだったのだと考えました。目の色が違っても「友達」なんだから他に問題あるの?その通りです。あれ、また涙でてきた。

 

そして、自明ではありますが、英二の人格です。無垢で純粋な彼の誠実さや暖かさは、自己嫌悪、劣等感、孤独に苛まれたアッシュを包み込み、光となった。「世界中を敵に回しても、君の味方。」アッシュのためだけの光。英二のためだけの光。年上である英二は、精神的に彼を守ろうとし、初めはアッシュにとって兄と重なる印象も少しはあったかもしれません。しかし、彼らはお互いの唯一の光となった。アッシュは、彼の光によって救われながらも、自分の中にある暗い過去が照らされることを恐れ、英二に会うことができませんでした。それでも、英二によって、彼が見るマンハッタンの夜明けは美しいものになったのでしょう。

*6

 

 そしてラストのシーン、あれではアッシュがどうなったかは曖昧になっていると思います。そこを読んだ読者は必ず、色々な分岐を想像するでしょう。

 だからこそ、私はアッシュが死んだ世界である「光の庭」を恨みました。「鎮魂と再生の物語」(吉田先生の言葉でしょうか?)は、勿論この作品を言い当てています。アッシュの魂は、英二の魂と結びつくことによって、救われました。そして、彼の見た夜明けの光は、英二、シン、暁をも照らしていく。でも、勝手な私は、それだけで良かったのだろうかと思わずにいられません。

最期のアッシュは、本当に幸福だったのだと思います。しかしあのとき彼は、その場で助けを求めることはできた。あれほど苦しみながらも生に執着していた彼が、英二の手紙によって満たされてしまったのでしょうか?*7結果的には、死ぬことで、英二を永遠に手に入れることになりました。彼を解放しながらも、束縛することになった。ある人を恋しく思うのは、孤独を知っているから。誰よりも孤独を知るアッシュは、英二を永遠に孤独にしました。

 「光の庭」を読めば、そんなことはない、英二がアッシュの思い出と共に歩き出しているのだと分かります。それでも私は、どうしてもアッシュだけが幸福な世界ではなく、魂の伴侶である*8英二にも幸福になってもらいたかった。いえ、「光の庭」での彼は、アッシュと過ごした日々によって、幸福なのだと思います。今も彼らはつながっているから。でも、半身を失った世界ではなく、2人が存在していて欲しかった。そして、アッシュにも、英二がいる世界をもっと見て欲しかった。 私は、作品における「死」が苦手です。好きな登場人物がいなくなるのは本当に悲しいし、アッシュと違い、私にとって死とは怖れるものだからです。だから、もし、死を描くなら、どうしても意味のある死を描いて欲しいと思っています。そして、本作の結末としては必ずしも必要な要素ではなかったと思います。でもこの作品において、死とは、彼らにとって意味のあるものでも特別なものでもなく、日常だった。そう考えれば、あのラストはそこまで悲愴的なものでは無いのでしょう。 しかし、そのような日常を送ってきたからこそ、英二の日常を感じてほしかった。そしてこう思わずにはいられません。「どうして彼をライ麦畑のつかまえ役にしてあげられなかったの?」と。

これは、個人の願望でしかありません。

 

 

  この作品には、何故か「懐かしさ」を感じました。アメリカ人でもなく、90年代に生まれた私は、何もリアルタイムで見たわけでもないのに。それは戦後、「アメリカ文化」を受け入れようとした日本人の特性なのか、現代から80年代への逃避なのか。あるいは、誰しもが彼らのような「絆」を求めているからでしょうか。魂の結びつき、そのような人間に出会うことができるのは、容易くできることではありません。

だからこそ2人はこの上なく幸福だったのだと頭では理解しているのに、今はまだ考えることができないようです。

 

 読み終えた時、本当に涙が出て、驚きました。どんなに悲しいお話でも殆ど泣くことがない鉄の女だからです。(最近少しは涙が出るようになりましたが。)このような状態でアニメを視聴することができるでしょうか?ひとまずNYに飛んで、市立図書館の前で、泣きながらホットドッグを食べます。トーフとナットウの方が好きだけど。誰かついてきてくれるよね?



*1:https://m.youtube.com/watch?v=lZD4ezDbbu4

*2:https://m.youtube.com/watch?v=gF5LaVkDhyk

*3:許斐剛テニスの王子様手塚国光より。

*4:青春小説の解説にあるような、「10代の少年少女にしかない多感な感情」そんなお決まりの言葉には昔から辟易していましたが、最近少し分かるようになってきました。本気で嫌です。

*5:白(ブランカ)という名前を見た時、シュガシュガルーンのネズミちゃんを想起しました。最後までスマートすぎてむかつきます。大好きです。

*6:2人が窓から夜明けを見るシーンで、あさのあつこ氏の「NO.6」を思い浮かべましたが、既にこの作品も「BANANA FISH」に影響を受けていることは指摘されているようです。何はともあれ、小学生で「NO.6」に出会ったことは運命でした。

*7:追記 アッシュの人生において、英二の手紙に書かれた言葉は、何よりも尊いものだった。現代の日本に暮らす私には、アッシュの気持ちは絶対に分からないのかもしれません。あのとき、アッシュは始めて自分から幸せになろうとしました。ずっと側にいて欲しいと懇願しながら、同時に遠ざけてきた英二に初めて歩み寄ろうとして、走り出した。でも、もうその言葉だけで、アッシュが今まで何よりも執着してきた生への渇望を超越していたのです。私はもっとアッシュに幸福になってもらいたかったのに、アッシュにはそんなこと関係のないことで、もう十分だったのです。だから彼は、この上なく幸せに眠りについた。その死はきっと、彼にとっては奇跡的で、輝かしいものだった。それでも、私はやっぱり悔しいと思います。どうして私はこんな幸せな世界に生きているのか。何故、彼らとは「幸せ」の定義が違うのか、あの時代の彼らには許されなかったのか。だからこそ、現代に生きるアニメのアッシュは、同じ結末を歩むのでしょうか。物質と利便性に溢れ、スマホを手にした彼は、「距離」「時間」「国」といった隔たりを原作のアッシュと同じように感じているのでしょうか。原作の時代を生き抜いたアッシュにとっては、英二の言葉が何よりも尊く、充分すぎるものだった。それは、個人の問題であると共に、そうさせた時代や環境があると思います。私は、あの結末を理不尽な時代のせいにしたいのでしょう。2018年のアッシュがどのようにその奇跡の生を生き抜くのか、今は楽しみにしています。空に飛んだ英二が映る、エメラルドグリーンの瞳を見れただけでもこの時代に感謝します。

*8:高殿円メサイア 警備局公安五係」より。